昭和49年08月16日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 今合楽で言われております、いよいよ貧乏のない世界、争いのない世界、病気のない世界。そういう信心のおかげの実現。それを願うて信心をいよいよ進めて行かなければならないという。無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることが出来るとこう仰る。そこでまぁ合楽の御信者さんを、まぁそうですね合楽で信心を、まぁ一年も一生懸命なさっておられるというほどしの人なら、ましてや椛目合楽を通して、25年になりますから。
 10年の人もありゃ15年の人もありゃ、25年丸々という人もあります。そういう人達がこう見渡して見ますとです、皆んな例えばここで言うところの、いわゆる無事達者で、これなら子孫にもいよいよ続くだろう。また身代も出けて段々行くだろうというところに今在るのです。昨日吉井の熊谷さんが、毎日いわゆる合楽示現活動に、もうそれこそ一生懸命ですね。もう75~6にもなられますでしょうか。
 もう毎日もうそれをいわゆる合楽を現すというね、示して行くというその働きを、もう不思議なことにですお話をすれば、させて頂こうと思えばもう向こうからその糸口が出けて、お話が出けて喜んで頂けれると。その事をまぁ本当にもうそれこそ楽しみになさっておられる。昨日も帰らせて頂いたら、またどこどこにやらせて頂きますからというお届けがあっておりました一昨日。そして昨日お参りして見えてからのお届けなんです。帰りましたらと言うてお届けして参りましたけれども。
 もう帰って朝ご飯やら頂きよると、先方がもう出かけておんなさらんかも知れんと思いましたから、もう帰りそのまま千足までやらせて頂いたとこう言うのです。椛目時代に立川さんという、大変熱心な総代さんがおりました。もう本当に熱心でした。もうそれこそあのう親先生に命を捧げても良いというくらいに、その当時言うならその当時の椛目の信心に帰依しておった人でした。それほどしに言うておってそれは嘘とも思われなかった。それが、もうあっという間にですね。
 本当にあっという間に、あらっこの頃4、5日参って来んが、どうしてじゃろうかといいよったら、手紙が来た。私は創価学会に入りましたから、合楽の信心をやめますという手紙が来た。もう私は本当にもうびっくり致しました。それっきり私はもう会わんなりですから、いつもやっぱ思い出すんです。やっぱり一時は私に命までもと言うて下さった方なのですから、して人物も大人しい方ですし、いわゆるその当時総代までされるくらいでしたからね。
 ですからあの熊谷さんその人柄も知っておられるし、信心も知っておられますから、まぁあどういうそれこそ魔が差したか知らんけれども、まぁ創価学会に移られたということがです、ある人が大変金を難儀しておる時に、あんたが創価学会に入るなら、お金を貸そうと言うた人があったそうです。ですからもう金を借りるために、あっという間に入ってしまった。ですから中で何回も行かれましたけれども、最近いわゆる合楽の示現活動と、今合楽でのごひれいを聞いてももらおう。
 また思い違い考え違いのところを、まぁお話もさせて頂こうと思うて行かれた。ところがもう既に立川さんはもうどこかに出かけておられた。そして奥さんが大変難しいやかましい奥さんがおりました。もうこの人がいつも立川さんの信心を、引き落とすといわれるような、まぁ嫁さんでしたが。ところがやはり夫婦でやっぱ創価学会。もう一家をあげてそのう信心をしておる。毎月どっか富士山麓にある本部に毎月お参りをする。もうそれは本当にもう何を置いてもやっぱお参りはする。
 そしてもうのっけからもうとにかく合楽で、もとの椛目の金光さんに、あんたもう騙さてしもうちからて言うちから、もうえらい悪口を言う。その悪口を言うのが創価学会の御流儀らしいんですよね。それからまぁ実はね今日は聞かせて、あのう創価学会の話も聞かせてもらおう、また合楽の信心も聞いてもらおうと思うて実は来たんですけれどもね。と言うてまぁ合楽の話をしたけれども、もうてんで寄せ付けない様な事だった。そのうそれこそムキになって言われる立川さんの奥さんがです。
 もう小さいほんな二間しかないお家に住んで、そして今何をしよんなさるかと言やぁ、何んかこういうのなら向こうの、どこでしよりなさるですかちいうたら、向こうの工場と言われる。その工場ちゅうのが工場やら、小屋やら分からんような所だそうです。もう本当に言うなら赤貧洗うがごとしちゃ、こういう風な家じゃろうというぐらいな家に住んでおるということ。最後に言われたそうです。立川さんが帰られたら言うて下さいと。ほんにあの時分の信心友達の方達がみんなおかげを頂いて。
 それこそ億万長者とか百万長者という事じゃないけれども、今貧乏どもしとる人は合楽には一人もおりませんよと。どこさもやっぱり立派な家は増々綺麗になり、第一病気をする病気がありません。もう薬を飲む人がないくらいです。もう第一薬箱が無くなったという家が多いです。もちろん争いなどあろうはずはありません。いわゆる貧乏もなからなければね争いもない。同時に健康のおかげも頂いておるというような、おかげの中にあって、そのおかげをいよいよ皆に聞いてももらおう。
 又は知っても貰おうという、そういういわゆる合楽示現活動に、皆んなが一生懸命です。自分が頂いておらずして、宣伝したところで宣伝が宣伝にならん。合楽の方達は皆んなが皆んなその言うなら、示現活動が出来れるだけの内容を持って、今その事で一生懸命ですよと。というてまぁお話をされたということです。まぁあちらに子供さんがある事を知っておられましたから、行きがけに果物屋で果物どん手土産に買うて持って行かれた。はぁとてもこうそげなモンどん絶対もらわん。
 金光様の信者さんからそげなモンどんもらいよんなら、罰被るちいうちから、もうえらいいうたそうですから、ほお創価学会っちゃんならそげなお土産いっちょでん、もろうちゃ出けん宗教ですかち。そげな訳じゃなかばってん、そんなら折角持って来とるけんで、まぁ子供さんにあげち下さいち言うちから置いて来たら、終いがたには柔うなってから、そのうまぁ表まで送って来られたという事でございますけれどもです。どこにどういう風に間違って、魔が差したか知らんけれどもそういう様な人もある。
 段々おかげを頂いてです、それこそ示現活動にでもね、参画させてもらわなければおられないほどしの内容というものをね、そげんせなければ助からん。お導きすることによって、自分が助かるという様な条件ではなくて、自分の頂いておるおかげをいよいよ世に現して行こうと言うのである。そうしなければおられないほどしのおかげを受けておるという、銘々がそれを自覚しなければならん。そこでです私は今日の御理解を、七十八節を頂いたんですけれども。
 七十八節を頂くかどうかは分からなかったけれども、今最後んところの無事達者で子孫もつづき身代も出け、一年まさりのおかげを頂いて行くということのためにです、最近これも皆さんに申しております、おかげの確認をしなければいけない。おかげがいつも頂き足らんような考えでは、もうおかげが枯死寸前にある時であり、おかげがもう枯れておる時であるから、一年まさりというおかげになって来ないのだ。頂いておるおかげをおかげとして、本当におかげを頂いておる。ほんに親先生が言いなさるようにね。
 考えてみると本当おかげを頂いて、別にお金が貯まってる訳じゃないけれども、その日その日の暮らしでは例えばあっても、不安もない心配もない万事必要なだけは、必要なお繰り合わせを頂いておかげを頂いておるということは、もう分限者も同じこと。おかげを頂いて健康一家中が、本当に薬箱一つ無くなったと、いう程しのおかげを頂いておるということは、もう大変な広大なおかげ。おかげを頂いて一家中がね、争いのない日々を過ごさせて頂いておるということは。
 もう本当に言うならば家繁盛子孫繁盛、無事達者でというおかげを頂いておるのですから、そのおかげをおかげと分からせてもらうところから、今度おかげが生きて来るから、一年まさりに育って来ると」いう風に頂きますよね今。
 そこでそれをです例えばあのう、こういうことを聞いて頂こうと思うて、書かせて頂いておりましたら、今の七十八節の今のところを頂きましたから、ここのところを徹底ひとつ皆さんの信心の上に頂いてもらいたいと思います。読んでみます。人間の知恵だけに基づいての生活は、必ず空しいことに終わる。これはどんなに調子よう行きよってもですね、あのうこれではどんなに、例えばなら家が繁盛しよってもですね、嫁御がついちゃ来んです。子供達が第一ついちゃ来んです。
 自分のね得手勝手な得手勝手って、自分の言うならば人間の知恵で信心を進めて行くということ、神様が中心じゃないということ。最近秋永先生が口を開けば言うておられるように、もう今の合楽はね教会を中心にした信心になからなければ、本当なおかげは受けられん。本当なおかげが受けられんということは、その事に気がついて来たんです。知ってはおったんです今まで先生も。けれどもそれをいよいよ自分のものにしていっておられるという感じがしますね。
 皆さんもそれは聞いちゃおりますよね。自分中心じゃいかん神様中心でなかなきゃいけないということ。けれどもそれを本当にそうだと、この頃分かって行っとられるということが、あのう度々の話の中からそれを私は感じます。人間の知恵だけに基づいての、例えば商売であったり事業であっては、必ず最後には空しい事になる。しかもそれではです、なら健康がついて来るということではない。家族がついて来るということじゃない。円満いわゆる争いのない生活とか病気のない生活は、これでは約束されないのだと。
 そこで世界中の人々が神様のお導きに従い、神様を尊び崇めての生活になる事を願いとする事が、和賀心時代を創るという事であるという事になって来る。これはもう私いわゆる、和賀心時代を世界にというのですから、世界中の人々がそういう事になって来る事のために私一人が、先ずその神様のお導きに従い、いよいよ神様を尊び敬うて行くという生活。それをなら神様任せの生活。もう自分の知恵というものは一遍おいといて、そして神様の英知に縋って、信心をして行くということなのです。
 どんなに例えば商売がそれは信心はしよる、お願いはしよる。けれどもそれはどこまでも、自分の思いを中心にして、どうぞお願いしますというだけの信心。神様任せになっての商売じゃない事業じゃない。そんなら必ずそれはもう空しい事になるのです。絶対おかげは頂いても。それは私過去の信心の何十年間の信心がそうでした。おかげだけは頂きよるけれども、結局は空しい事になってしまったんです。今日もどうぞ商売が繁盛しますようにとお願いして、例えば繁盛した繁盛は本当の繁盛じゃないて。
 神様が右と言われるから右になり、左と言われるから左にならせて頂くという、神様任せの生き方にならせて頂くところからです、いよいよ神様を尊い崇めなければおられない生活も、またおかげも頂く事になるのです。もうこれはもうすぐ何十年間、この事だけは言うて来ました。「ついて来なさいこの提灯に、決して苦労はさせはせん」と。もうそれこそ25年前に、この事はもう繰り返しいうた事です。けれどもです本当にそうなりきってなかったんですみんなが。
 自分のただ都合のよか事だけは親先生任せになるけれども、自分の都合の悪い事は任せきらない。ここに徹していく所の生き方からです、今日のいわゆる無事達者で子孫も続きといった様なね、一年まさりしかも代まさりのおかげの受けられるという、おかげになって来るのです。創価学会でね金光教は邪教ち。そして三代金光様の事をいざり足が立たん。そげなもんどん拝んどったっちゃおかげを頂ききらんと言うて、捲くし立てておった人がです、実際熊谷さん自身がおかげを受けておられる事実をね。
 お話をさせて頂いた。そこにならたとえば立川さんのところのです、もうそれこそ赤貧洗うという、今時はもうとてもこげな家に住んでおられる人はなかろうと、いう様な生活状態が、こうもう分かるような雰囲気だそうです。何か仕事を少ししよる。どこでしよんなさるのち言うたら、あん前ん方の工場ち。そん工場ちゅうとがもうほんな掘っ建て小屋のような小屋であると。いかに毎月ならまぁ創価学会の御本部に参ったところでです、そういう例えば生きた働きもない事では。
 本当に情けない信心だと言わなければ出来ません。今の合楽には皆んながです、一応言うならば極楽の世界に住み、その極楽の世界をもう一つ前進して、合楽の世界に住もうと。合楽を示現して行こう現して行こうという信心に、現在皆んながいわば足並みを揃えておる訳ですから。まだすっきりしない事はおびただしいと思うですけれども、秋永先生じゃないけれども、とにかく神様を中心にした生き方にならなければ、本当のおかげにならないということを、今日は聞いて頂きましたね。
   どうぞ。